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コンペイトウブルーの明日

自律神経失調症になってしまった私の他愛のない毎日

私と言葉と外の世界

自己紹介 読書 集団生活
こんばんは、紫陽です。

今日は、昨日体力がなくて書き上げられなかったことをまとめてみます。

私たちは、自分以外の人とつながるために言葉やボディランゲージを使いますよね。今回は、特に“言葉”の部分に焦点を当てていきたいと思います。

実は昨夜、食事が終わった頃に、NHKの教育テレビに回し者のようにお世話になっている母が録画していた「いじめをノックアウト」というAKBのたかみながいじめについて一緒に考えるという番組でLINEを使ったシュミレーションをやった特集を見ました。
タイトルはたぶん「いじめるつもりはなかったけど…」という前後編のものです。

この回では、LINEで発生するイジメは“言葉” 不足から誤解が生まれて、「自分が被害者、相手は加害者」とお互い感じてしまうことが原因だから、もっとコミュニケーションを図ろう!みたいな感じでまとめられていました。

未だに何かの折に母校の大学の部室に顔を出すことがあって、少し年の離れた子たち(といっても、妹や弟と変わらないくらい)と話す機会がたまにあります。
滅多に話さない年下の子たちにこんな感想抱くのもどうかしら、とは思うのですが、確かに、最近の子って、会話していると語彙が少ないなと感じることがあります。

簡単な言葉にどんどん置き換えていって、簡略化していってる、そんな感覚です。

文章を書かせるとそうでもないのかもしれませんが、コミュニケーションとしての言葉の数が少ないので、自分の思っていることがきちんと発信できていないんじゃないかな、と心配に思います。

「だるい」「うざい」「だまれ」「だよね」「うける」「わかる」「マジ」など、一言だけで主張や同調ができて、さらに会話がそれで成立してしまっていたりする光景は、私からしたら単調すぎて何が面白いのか分からなくて奇妙に感じられてしまい、会話の中でもっと膨らませてみようとか変化球かけてやろうとか思うことないのかよって思ってしまいます。やりかたを知らないだけなのでしょうか。(特に、「マジ」なんかは変に有能で、主張も同調もできれば疑問にも使えるというから本当に恐ろしい存在だと思うのです。)

さらに、最近は中高生や大学生に限らず、小学生や幼稚園くらいの子でも、けっこう乱暴な言葉を使う子が増えてきたように感じます。
昔から多いよ、という主張をお持ちの方もいるかもしれませんが、少なくとも小学校が徒歩3分圏内、保育所が徒歩10分圏内の私には近所の子どもたちがそんな風に映っています。

親や年上の兄弟の言葉づかいや一緒に見ているTV番組などからインプットされていくのだとは思いますが、小さいころからお世辞にもきれいとは言い難い日本語にさらされているというのも少し考えものではないでしょうか。
かといって、堅苦しいことばかりしろ、という意味ではないです。要は、バランスが大事でしょって話です。

幼いころ、お盆や法要の時に祖父母の家に説法に来ていた和尚さんのお寺に祖母と遊びに行ったときに、何かの拍子にきっと私が失言してしまったのだと思うのですが、「私たちが使う言葉は言霊といって、一つ一つに意味があって、力があるから、むやみやたらに使うものじゃない」と教えてくれました。
その頃は正しく理解できていたとは思いませんが、小学生の時に「口は災いの元」という言葉を知ってからは、その時に合う言葉を選ぶ努力をしました。

例えば、小学校中学年の時に、ある女子が体調が悪そうだったので話を聞いてみると生理が始まってフラフラする、ということだったので係の仕事を引き受けたところ、クラスメイトの男子から「男子の仕事は引き受けないくせに!それは「差別」じゃないのか」と非難されたことがありました。

しかし、生理は女性特有の現象であり(という部分はさすがに彼女のためにも伏せましたが)、彼女の場合はもともと貧血で倒れることも過去に何度かあった上、その時も顔色が悪かったから引き受けたのであるので「差別」ではなく「区別」だ、体調が悪い人を助けて何が悪いのかと冷静に説くと気まずくなったのか理解ができなかったのか、ばつが悪そうに黙ってしまいました。
言葉は、きちんと意味を理解して使う必要があるのだと思いますし、この時に私が件の男子に「うざい、だまれ」とか言っていたら、考えていることが伝わらず喧嘩にしかならなかったと思います。

相手をするのが面倒くさい相手であっても、言葉で説明すれば納得しなくても理解しなくても、考えは伝わると思うのです。伝えたくないのであれば、話は別ですが……

今日の就業前の情報収集時に見たネットニュースの記事の一つによると、近年、大学生は本を読まない傾向がどんどん強くなっているようです。(参照:
http://www.j-cast.com/2014/03/02197896.html 【大学生「読書時間ゼロ」初の4割超え 本買わず、電車内でスマホいじるばかり】)

ここ数年の間に、子どもの読書離れが話題になっていましたが、とうとう対象が大学生にも向けられ始めたか、と思うと同じ日本人として少し情けなく感じます。

また、最近は大手古本屋の店舗数が増えてきたこともあり、大衆文学などのエンタメ作品は書店ではなく古本屋で購入する、という人も多いようです。(参照:
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6193640【エンタメの未来が危ない! 作家・有川浩が決意の緊急提言「新刊本を買う意味」】)

私も某大手古本屋には、街中にあることもあって、時折お世話になることがありますが、絶版とかその表紙が期間限定だった本の場合など、限定して使用するように心がけているつもりです。
本が売れない、というのは、書店のアルバイトの経験もあってか実感があります。
若いお客様の場合、いわゆる雑誌やムック、コミックはレジまで持ってきてもらえるのですが、文庫や単行本、新書などがたくさん売れるのは稀なことです。

大衆文学で映像化した作品や出せば売れるレベルで人気のある作家さんの作品なんかは比較的よく売れて、ベストセラーランキングでも上位に入るのですが、そこから先がなかなか難しいというのが現実のように感じます。

今や、タブレットで大衆文学や新書、コミックなど様々な作品が読める時代。
IT技術はここ十数年の間にめまぐるしく歩みを進めていて、読書はその中に埋もれ始めている、そんな感じがします。

しかし、技術は進化しても人間は人間です。生身の生き物なのです。
そこは永遠に変えようがない事実ではないでしょうか。

イジメについては、単にコミュニケーション不足だけのものとは考えていませんので、読書量が増えて自分の考えをきちんと伝えられたらイジメがなくなって平和になる、とか微塵も思っていません。
イジメに関しては、コミュニケーション過多でも起こる事例もありますし、集団という塊の中にいたら結束するために誰かを生贄にする場合もあります。
“言葉”をたくさん知っていても、それを逆手にとって武装して誰かを傷つける人もいるでしょう。

だから、外の世界とつながろうとするときは、もっと「もしも、自分が○○さんだったら……」と置き換えて考えられるだけの創造力や配慮、謙虚さなんかが必要なんじゃないかな、と思います。
そして、現代人にはそういう部分が全体的に不足しているように感じます。

どんどん新しく進んでいく未来にばかり目を向け、古くなっていったものを削いでいく傾向にありますが、そろそろ先人たちの賢い知恵や当たり前だったことを振り返ってみても良いのではないかと感じる次第です。

私が考えていることは何か特定の何かを非難しているわけでも否定しているわけでもないつもりですが、不快な思いをさせてしまっていたらすみません。
しかし、皆さんはどう感じられますでしょう?